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<第1次世界大戦終結100年> 戦場の理屈 大量殺害

国際

2018年8月19日 朝刊

ベルギーのイン・フランダース・フィールズ博物館で、化学兵器登場後の戦闘について語るピーター・トロー研究員=阿部伸哉撮影

 トウモロコシ畑が緩やかな地平線を延々と描く。ベルギー西端にあるイーペル北方の郊外。ここで一九一五年四月二十二日夕刻、塹壕(ざんごう)にいたフランス軍兵士は風上に黄緑色の煙が立ち上がるのを目にした。煙は地をはうように広がり、もん絶の声が響き渡った。

 「牛も鶏も虫も、すべて死んだ。フランス軍兵士も塹壕からもがきながらはい出て、苦しみのあまり銃で自殺した者もいた」

 イーペルにあるイン・フランダース・フィールズ博物館が音声と画像で紹介する世界初の大規模な化学兵器使用の場面。第一次世界大戦が始まった翌年、ドイツ軍は塩素ガスが入った六千ものボンベを六キロにわたり並べて開栓し、未知の兵器で敵を不意打ちした。大戦では推計千六百万人の死者のうち、博物館は「1%(約十六万人)が毒ガスによる死者」とみている。

 ベルギーなど西部戦線では、ドイツ軍と仏英軍の双方が前線に網の目のように塹壕を張り巡らせ、お互いの前進を阻んでいた。敵の守りを崩すのに三倍の兵力が必要とされた。

 「いらだったドイツ軍が戦局打開のため化学兵器使用に踏み切った」と博物館の化学兵器担当ピーター・トロー研究員は解説する。

 ドイツ軍に新兵器使用を進言したのはドイツ人化学者フリッツ・ハーバー。空気中の窒素からアンモニアを人工合成する手法を編み出し、窒素肥料の大量生産につなげていた。世界の食糧生産が飛躍的に伸びたことから、一八年のノーベル化学賞受賞者となった。トロー氏によると、ハーバーが一五年一月、陸軍幹部をこう説き伏せている。「化学兵器は効果的で、長引く戦闘を早く終わらせ、兵士の命を救う人道的兵器だ」

毒ガスの効果を遠巻きに確認するドイツ軍兵士たちを描いた絵はがき=イン・フランダース・フィールズ博物館提供

 その三十年後、第二次大戦末期に広島、長崎に投下された原爆を、米国は同じような理屈で正当化する。

 しかしハーバーの言い分は、イーペルの戦場で「すぐに誤りだと証明された」とトロー氏は指摘する。化学兵器による攻撃にもかかわらず、英仏など連合国軍はすぐに前線を立て直し、防毒マスクも開発。一カ月たってもドイツ軍の前進は数キロ程度にとどまった。その間、双方の死者数は四万人に上った。

 当初、ドイツを「野蛮」と非難した連合国側も化学兵器を開発して競争になり、ボンベ設置ではなく大砲で発射するほど進化。「戦闘終結どころか残虐性が増しただけ」という結果は、際限ない現代の核兵器開発競争にも重なる。

 イーペル近郊では、若きヒトラーもドイツ軍の伝令役として戦場を走り回っていた。自著「わが闘争」では「英軍の化学兵器の攻撃を受けた」と主張している。毒ガスの威力を知ったヒトラーは後に、ユダヤ人などの大規模虐殺にガス室を用いることになる。

 イーペル近郊の畑では今でも化学兵器の不発弾が見つかる。ベルギー軍によると、マスタード弾は少し触れるだけで「テニスボールのようなこぶ」が皮膚にできるほど強力という。(ベルギー・イーペルで、阿部伸哉)

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 欧州で「ザ・グレート・ウオー(大戦争)」と記憶される第一次世界大戦は、今年十一月十一日に終戦百年を迎える。一世紀前の大戦の反省は今、生かされているのか。随時報告する。

<第1次世界大戦> 1914年6月、オーストリアの皇太子夫妻がボスニア・ヘルツェゴビナの州都サラエボで、オーストリア併合に反対するセルビアの青年に暗殺された事件をきっかけに開戦。ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国などを中心とする同盟国と、フランス、英国、ロシアなどの連合国に分かれて戦い、18年11月のドイツ降伏で終結。19年にベルサイユ条約が結ばれた。化学兵器に加え、戦車や飛行機、機関銃、潜水艦など新兵器が投入される総力戦となり、死者数は1600万人との推計がある。

 

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