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<太宰治没後70年 三鷹の記憶> (3)小説はネットワークの産物

東京

2018年9月1日

 「太宰治の小説は、さまざまな人たちとのネットワークの中から出来上がってきました」と太宰を研究する安藤宏東京大教授(日本文学)は話す。

 太宰は、調べ物が必要なときは、歩いて十五分ほどの評論家亀井勝一郎の家に本を借りに行っていた。多くの作家とも交流があり、太宰を慕う文学青年らが三鷹に集まってきた。

 その中の一人に、岩手県花巻市出身の東京帝大生三田循司もいた。三田は詩人を志していたが、繰り上げ卒業で出征。一九四三年、北方のアッツ島で戦死した。太宰の小説「散華」には三田循司という若者が登場する。

 作中「御元気ですか。遠い空から御伺いします。無事、任地に着きました。大いなる文学のために、死んで下さい。自分も死にます、この戦争のために」という戦地から届いた三田のはがきの一節を三回引用している。

 「死んで下さい、というその三田君の一言が、私には、なんとも尊く、ありがたく、うれしくて、たまらなかったのだ」と作家として文学に懸ける思いを表明している。

 太宰と三田との深い交流を物語るはがき数枚が近年、見つかり「日本現代詩歌文学館」(岩手県北上市)が所蔵している。安藤教授は「三田は、太宰にとって非常に重要な役割を果たしたことが分かってきた」と指摘している。

 太宰は多くの画家とも交流。戦後は、三鷹駅前に住んでいた画家の桜井浜江さんのアトリエをよく訪れた。桜井さんが生前、太宰との交流について語った数少ない機会が九八年に三鷹市のグラフ誌「グラフみたか」の取材に応じたときだった。

 同誌によると、太宰は仲間と近くで飲んでから、いつも大勢で訪れ、貸してくださいも何もなく、人のキャンバスを使って、人の絵筆を使って、描き上げるとそのまま帰ってしまった。「普通だったら怒っちゃうようなことだけど、太宰さんの場合は気にはならない」「自分を痛めつけても、人を傷つけるということはない」と印象を述べていた。

<メモ>桜井さんは、来客を献身的にもてなす女性を描いた太宰の小説「饗応夫人」のモデルとされる。

 

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