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<東京の城景>(2)石神井城(練馬区) 水辺に悲劇の物語

東京

2018年5月2日

うっそうとした緑が包む石神井城の土塁跡。保護のためフェンスで囲まれている=練馬区で

 西武線石神井公園駅から商店街を抜けると、住宅街に囲まれた公園にたどり着く。澄んだ水をたたえる池があり、のんびりと釣り糸をたらす人がいた。

 室町時代の城跡は、公園の南端にあった。練馬、北区など現在の二十三区の北側一帯を支配していた豊島氏が鎌倉時代からの拠点を拡張した。十五世紀、関東における戦国時代の幕開けとされる「享徳の乱」の頃だ。

 「台地全体が城でした」。郷土史家の八巻孝夫さんは説明する。公園を沿うように流れる石神井川と、三宝寺池に挟まれた天然の要害だった。

 保護のために囲むフェンス越しに、空堀と土塁を見ることができる。八巻さんは「落ちたら上がるのが大変な堀ですよ」。一九九八〜二〇〇三年の区教委の発掘調査で、深さ六メートルほどもあったことが分かった。謎も残る。城の出入り口に当たる「虎(こ)口」の跡が見つかっていない。中心部分の城は、空堀の奥に築かれた土塁のさらに奥、一段高い場所にあったとされる。

 関東管領の配下だった豊島氏は反乱を起こし、管領派の武将太田道灌と対立関係になる。一四七七(文明九)年、石神井城は太田道灌に攻め落とされ、豊島氏の一族は滅亡する。

 ここから生まれた悲劇の物語がある。落城時、城主の豊島泰経は金のくらで白馬にまたがり三宝寺池に身を投げる。娘の照姫も後を追って入水した−。毎年四月、そんなストーリーにちなんだ「照姫まつり」が公園周辺で開かれている。史実でも古くからの伝説でもない。一八九六(明治二十九)年、都新聞に発表された遅塚麗水の小説「照日松」に描かれたシーンが基になったという。

 豊島氏ゆかりの城跡は、ほかにもある。遊園地「としまえん」の場所には練馬城があった。練馬なのに「豊島」の由縁だ。北区のJR上中里駅に近い平塚神社の辺りには、豊島氏の初期の本拠地・平塚城があったとされる。今に伝えるものは残っていない。

 石神井城があった一帯は大正時代に公園化が進み、昭和初期に風致地区となったことが、結果として城跡の保存につながった。「二十三区内で遺構がよく残っている城はほかにない」と八巻さんは言う。「歴史と私たちのふるさとがリンクした場所。石神井城跡を知って、ふるさと再発見をしてもらえたら」と話す。 (渡辺聖子)

<石神井城跡と石神井公園> 西武池袋線石神井公園駅から公園までは徒歩約10分、城跡までは約20分。発掘調査で出土し、練馬区登録有形文化財の小刀は公園南側の石神井公園ふるさと文化館(石神井町5)=電03(3996)4060=で展示されている。園内の石神井池には、有料のボート乗り場もある。

 

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