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<東京の城景>(1)葛西城(葛飾区) 関東の大乱、最前線

東京

2018年5月1日

ベンチでくつろげる御殿山公園。一帯は葛西城の本丸だった=葛飾区青戸で

 下町の大動脈を挟み、二つの緑地が向かい合う。東側が葛西城址(じょうし)公園、西は御殿山公園。一九七二年に始まった環七通りの建設に伴う発掘調査で、一帯は城跡だったことが分かった。

 築城は十五世紀半ばごろ。争乱の時代を迎えていた。室町幕府が、関東統治のために置いた鎌倉公方・足利氏と、公方を補佐する関東管領・上杉氏が対立。幕府は上杉氏を支援した。鎌倉を攻められた公方は古河(茨城県)へと逃れ、利根川(現在は江戸川)を挟み東側が公方、西側は上杉の勢力となる。

 戦国時代の幕開け、関東を二分した「享徳の乱」(一四五四〜八三年)だ。利根川水系の中川沿いの葛西城は、上杉勢の最前線だった。今、葛西といえば江戸川区の埋め立て地のことだが、かつては現在の葛飾、墨田、江東区あたりまでも葛西と呼んでいた。

 交通の要衝だったため、争奪が繰り返された。関東の支配者となる小田原北条氏が攻略に成功したのは一五三八年。六〇年、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に奪われるが、景虎が戦略変更で関東から撤退した後は再び北条氏の城となる。

 九〇年、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、葛西城も百四十年ほどの城の役割を終えた。その後、徳川家康が城跡にタカ狩りの休憩所「青戸御殿」を造営し、家光まで三代の将軍が使った。

 発掘調査では、幅二十メートル、深さ二メートルの巨大な堀が見つかった。何度も改修した跡があった。中国製の磁器「青花器台(せいかきだい)」など華やかな工芸品も出土した。北条氏は、古河公方を一時期、葛西城に住まわせていた。新興勢力の北条氏が権威を得るために、公方の威光を利用したのではないか、との推察も成り立つ。要塞だった城が、政治的なメッセージの発信地へとなっていった。

 発掘品は、戦国時代の血なまぐさい実像も伝える。その一つが、首を切られた女性の頭骨だ。本丸の表門脇の堀跡から見つかった。葛西城についての著書がある区観光課の谷口栄さん(57)は「何かのまじないなのか、目的は分かっていないが、時代を知るための超一級品の史料」と話す。

 遺構は埋められ「見えない城」となった。住民も、あまり城のことは知らない。立ち上がったのが、区内で印刷会社を営む設楽安男さん(53)。ローカルヒーロー「葛西城戦士カツラギ」を考案し、仲間と波瀾(はらん)万丈の城の歴史を題材にしたヒーローショーを商店街などで演じている。「葛飾にも城があることを知ってもらい、街を盛り上げたい」と意気込む。(飯田克志)

      ◇

 有力者が覇を競い、敗れていった夢のあと。都内の意外な場所にひっそりとたたずむ城跡の風景から、戦乱の世に思いをはせる。

 ◆葛西城址公園・御殿山公園 京成線青砥駅から徒歩20分。環七通りが国道6号と交差する陸橋の手前にある。公園から1キロの葛飾区郷土と天文の博物館(白鳥3)=電03(3838)1101=で、出土品が見学できる。ほかにも、青砥駅近くのパワースポットには平安時代の陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明ゆかりの立石熊野神社(立石8)=電03(3693)5623=がある。

 

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