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まるい笑顔 輝いた 子どもの日常 絶妙な笑い

社会

2018年8月28日 朝刊

 「『ありがとう』しかない恩人です」−。五十三歳で世を去った国民的漫画「ちびまる子ちゃん」の生みの親、さくらももこさんに、多くの人々から悲しみと感謝の言葉が寄せられた。さくらさんは初の新聞漫画として本紙に「ちびまる子ちゃん」を連載。その当時、本紙担当者らが接したのは、創作に真剣で誠実な素顔だった。

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 さくらももこさんは二〇〇七年七月一日から一一年十二月三十一日までの四年半、本紙朝刊で四コマ漫画「ちびまる子ちゃん」を連載した。すでにテレビアニメ化され国民的作品となっていたが、四コマを「自分の創作意識の新しい軸」として、意欲的に取り組んでいた。

 まる子は、自身の子ども時代を投影した主人公。昭和の時代に育った人々が、共通の体験として記憶している小学生の「あのころ」が再現され、絶妙な笑いを誘う。小学生がふいに見せる冷静さや、大人の縮図のような学校の人間関係などを「あるある」と感じる人は多かっただろう。「エッセー漫画」のジャンルを切り開いてきた実力は、新聞連載でも発揮された。

 連載開始前に本紙に掲載されたインタビューでは、まる子のことを「ちょっと照れ屋で明るい性格で、基本的にはまじめだけれど面倒くさがりだったりするという、ごく普通の女の子」と話し、子ども目線の楽しい漫画を描き続けた。

 連載は二〇一一年三月十一日、東日本大震災で一つの転機を迎えた。それまで社会問題については「多くの方がそれぞれ意見をお持ちだと思うので」と、作品には反映しない方針でいたが、同月十八日には、被災者へのメッセージを込めた漫画を発表。まる子が、涙を浮かべながら「きっと大丈夫だよね。日本も」と語る内容だった。直後から約二週間休載。一一年末に連載を終了する時も、その時期が「本当につらかった」と、振り返った。

 連載は「超売れっ子で、受けてもらえないのでは」と思いながらも、担当者が依頼したのが始まり。さくらさんの挑戦心と重なったのか、企画は思いがけずとんとん拍子に進んだ。親しい編集者以外に、人前に出ることはめったになかったが、打ち合わせで会った別の担当者は「和服姿で現れて、よく話しかけてくれた。気さくで気遣いがある人だった」と思い出を語る。関係者によると、連載当時から乳がんを患っていたという。

 さくらさんの連載終了時のインタビューは、次のような読者への感謝の言葉でしめくくられている。

 「皆さまからのご声援が心の支えでした。この四コマの仕事で得た力をこれからの創作活動にも役立てて、がんばってゆきたいと思っています」 (中村陽子)

◆早すぎる/エッセーに才能/思い出くれた

 テレビアニメで主人公まる子の声を担当している声優のTARAKOさんは「早すぎます。まだまだやりたいこといっぱい、いっぱいあったと思います。ずっとお会いしていなかったので、私の中のももこ先生は、ずっと小さくて可愛(かわい)くてまあるい笑顔のままです。『ありがとう』しかない恩人です」とのコメントを発表した。

 清水市(現静岡市清水区)出身のさくらさんと小学校時代(当時の清水市立入江小)に同級生だったFC東京の長谷川健太監督は「突然の訃報に驚いています。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメント。「ちびまる子ちゃん」に登場するサッカー少年のケンタは、長谷川監督がモデルだった。

 漫画家のちばてつやさんは「三十年ほど前、漫画賞の授賞式で初めてお会いした時、明るくて楽しくて、ちびまる子ちゃんが漫画の中から出てきたような人だと思った」と故人をしのびながら「漫画だけじゃなくて、エッセーもイラストも素晴らしかった。これからも、もっと活躍できたのに。日本の漫画界にとって大きな損失だ。本当にもったいない」と残念がった。

 さくらさんと親交のある作家の吉本ばななさんは「青春を共に過ごしたももちゃん、闘病は知っていましたが、いつも元気にメールをくれるから回復を信じていました。言いがたいほど淋(さび)しく、残念です。友だちとして、たくさんの楽しい思い出をありがとう」と惜しんだ。

 

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