XMenu

<家族のこと話そう>おふくろの尊い決断 漫画家・森田拳次さん

暮らし

2018年8月26日

 生まれてすぐに旧満州(中国東北部)の奉天(現・瀋陽)に渡り、両親と四つ下の弟の四人家族でした。おやじは関東軍に納めるかばんなどを作る仕事をしていましたが、終戦近くになると召集され、残ったおふくろが家を守ることになりました。

 おふくろは「日本の母」という感じの人で、優しかった。おやじが召集されてからは、棒なんかを持ち出してきて、家族を守るぞ、とめいっぱい気合を入れていました。

 そんなおふくろに一度、ぶん殴られたことがあります。敗戦後、旧ソ連軍が旧満州に侵攻してきたときです。女性に乱暴する兵士から身を守るため、日本人の女性は男に見えるように丸刈りにしたり、顔に炭を塗ったりしていた。そんなとき、隣のおばさんに「男みたいだ」と言ったら、おふくろからいきなり殴られた。「何てことを言うんだ」って。女の人にとって、髪は大事だから。殴られるぐらい怒られたのは、あのときだけです。

 ある日、中国人がわが家にやってきて「弟を売れ」と言ってきた。日本人の子どもは働き者で評判が良くて、一緒に遊んでいた友だちも売られていました。当時は、日本に戻ると米兵が子どもを食ってるとか、いろんなうわさがあったから、一緒に日本に帰るのと、中国に残していくのと、どっちがわが子にとって幸せなのか、親も分からなかった。おふくろは「うちは売らない」と断りました。どうなるか分からないけど、親子はずっと一緒だと。

 ちなみに、僕には値が付かなかった。利発そうに見えなかったからかな。ショックでしたねえ。

 シベリア行きの列車から逃げてきたおやじと合流して、日本へ帰ることができましたが、おふくろは引き揚げの苦労が出たのか、すぐに脊椎カリエスを患い、長い入院生活が始まりました。おやじと弟もけがや病気で入院した時期もあって、小学生だった僕は病院で寝泊まりしながら、家族三人に食事を配膳する介護生活を続けました。そんなとき、紙に絵を描くことしか楽しみがなかった。漫画少年の原点ですよ。

 僕はギャグ漫画を描いていくうちに一枚漫画をやるようになり、コンテストで毎年入選していました。おふくろの枕元に寄って結果を見せてやると、喜んでいましたね。自分も習字が大好きでよく作品を書いていたから、息子にも芸術の才能が遺伝した、と思ったんじゃないでしょうか。

 結局、おふくろはずっと入院ばかりして、六十代前半で亡くなりました。戦争のせいで、あんまり楽しくない人生。もう少し長生きしてくれたら、もっといろんなところに連れて行ってあげられたのになあ、と思います。

 聞き手・写真 河郷丈史

<もりた・けんじ> 1939(昭和14)年、東京生まれ。生後3カ月で満州に渡る。小学4年で漫画を描き始め、高校2年で漫画家デビューした。代表作は「丸出だめ夫」「ロボタン」など。漫画家たちが戦争体験を伝える八月十五日の会を2002年に設立した。

 

この記事を印刷する