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<ひと物語>幕末〜明治 水戸市出身 相撲の近代化に尽くした大横綱・常陸山谷右衛門(中)

茨城

2018年9月9日

大横綱・常陸山の土俵入り

 名古屋相撲から大阪相撲に移り、一八九七(明治三十)年四月、再び東京相撲に復帰します。幕下付け出しの再出発ながら九九年一月には入幕を果たし、さらに前頭、関脇、大関と確実に出世街道をばく進します。そして一九〇三(明治三十六)年五月、みごとに全勝優勝を果たし、場所後、梅ケ谷とともに第十九代横綱に推挙されるのでした。

 「常陸山は待ったなし。いつでも、どの相手にも受けて立つというのが特徴でした。組んでからも相手に相撲を取らせてから攻めるといった、まさに横綱相撲を見せてます」(仲田昭一・那珂市歴史民俗資料館長)

 常陸山の得意わざは左よつ、つり出し、つかみ投げなど多彩、そして豪快。なので観客はまさに手に汗を握り、彼の熱戦に沸きます。このような取り口、あるいは華麗な土俵姿から、常陸山はいつしか「御大」と称されるようになります。

常陸山のブロンズ像=水戸市で

 常陸山の横綱昇進を広瀬武夫・海軍中佐も祝福します。けれど、日露戦争勃発で出征し、常陸山の晴れ姿を見ないまま戦死します。

 常陸山は戦死の一カ月ほど前、広瀬中佐に慰問文を送りました。広瀬中佐からは「貴君の横綱姿はまだ見てないので、ぜひ土俵入り姿の写真を送ってほしい」(式守伊之助著『常陸山谷右衛門』)との要望があり、返信したものの、結局、間に合いませんでした。

 このときの無念が一九一〇年七月、旅順の白玉山忠霊塔における奉納相撲につながります。この月、常陸山、梅ケ谷一行は当時の満州、朝鮮で夏巡業し、帰途、旅順にまわって忠霊塔の前で横綱の土俵入りを披露するのでした。

 実は、忠霊塔慰問をはたしたからこそ一行は遭難を逃れたというエピソードも加わります。当初、乗船予定の帰国船は濃霧のため朝鮮半島木浦沖で沈没し、多数の乗客が水死する海難事故に遭います。けれど一行は急きょ、常陸山の忠霊塔前奉納相撲で予定を変更したため惨事に遭わずにすみました。一行を救ったのは広瀬中佐が天から見守ってくれたおかげだと感謝し、思いに応えるには相撲以外ない、と常陸山は精進を重ねるのでした。

 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「常陸山谷右衛門」(式守伊之助、筑波書林)

 

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