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松下康雄さん死去 日銀の意識改革に腐心

経済

2018年7月26日 朝刊

1997年11月、会見する日銀の松下康雄総裁(当時)=日銀本店で

 日銀は二十五日、日銀総裁や大蔵事務次官などを務めた松下康雄(まつしたやすお)氏が二十日に死去したと正式に発表した。九十二歳。神戸市出身。葬儀・告別式は近親者のみで行った。

 東大法学部卒業後の一九五〇年、大蔵省(現財務省)に入り、官房長、主計局長などを経て、八二年に事務次官に就任した。八六年には太陽神戸銀行に転じ、八七年頭取。九〇年には、当時の三井銀行との合併を断行し、新銀行の会長に就任した。九四年十二月、三重野康氏の後任として第二十七代日銀総裁になった。

 九七年の北海道拓殖銀行や山一証券の破綻を引き金にした金融不安への対応に奔走。九八年四月の日銀法改正への道筋をつけ、政府からの独立性向上に貢献したが、九八年三月、日銀職員の接待汚職事件の責任を取り任期途中で辞任した。

 松下氏の死去は二十四日に明らかになったが、日銀は当初、遺族の意向で公表していなかった。

 大蔵省(現・財務省)の「大物事務次官」に続き、都銀同士の大型合併を実現させた辣腕(らつわん)頭取、そして金融システム危機に対峙(たいじ)するセントラルバンカー(中央銀行総裁)−。

 日本経済がバブルに向かう絶頂期から、その後の長期停滞期まで財政・金融の最前線を歩んだ人生だった。一見、派手に見える経歴だが、手堅く実直な人柄であったと思う。

 一番の思い出は、日銀総裁在任中に政府からの独立性と政策決定の過程の透明性を向上させる日銀法改正に道筋をつけたことだ。

 政治や大蔵省が日銀に対して強い影響力をもっていたのを排するわけで、それまで日銀の生え抜きと大蔵事務次官経験者が交互に総裁に就く「たすき掛け人事」も事実上終焉(しゅうえん)を迎えた。松下さん自身が最後の次官経験者の日銀総裁となった。

 旧日銀法下で大蔵省に従属する形の日銀マンたちは、愚痴をこぼすが実は責任逃ればかりしているとして「御殿女中」などと陰口をたたかれていた。そういった日銀内の意識を変えていくのは大変だったろうと想像する。

 そんな日々の本音を聞き出したいと思っていた時に、ある団体のパーティーでグラスを片手に立ち話する機会があった。松下さんが得意としていたラテン語で水を向けてみた。

 「in vino veritas(酒の中に真実がある)…」−酔った時に本音を話すという常套句(じょうとうく)だったが、笑顔で「申し訳ないが、お酒は控えめにしているのでね」とうまくかわされてしまった。いかにも松下さんらしい手堅さを感じたものだった。

 残念ながら、日銀の接待汚職の責任を取る形で任期半ばでの辞任を余儀なくされた。このため、世間を驚かせた太陽神戸と三井銀行の大合併をやってのけたような辣腕を振るうことはなかった。

 松下さんの在任中からじわじわと進行したデフレ経済を、いまだに脱することができない。異次元の金融緩和をやみくもに続ける日銀の姿をどうみていたのか。酒を酌み交わし、本音を聞いてみたかった。 (論説委員・久原穏)

 

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