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保坂和志「ハレルヤ」愛猫の死 普遍的に描く 佐々木敦

文芸時評

2018年4月4日

保坂和志氏

 犬派か猫派かでいったら、私は大の犬派である。今から三十五年以上も昔の十代の頃の話だが、実家で犬を飼っていた。それからずっと犬が好きで、今でも道で繋(つな)がれてるのを見かけたりしたら、つい立ち止まって話し掛けたり撫(な)でたりしてしまう。猫は飼ったことがないので、どうもよくわからない。

 それでもこれまでのそれなりに長い人生のなかで何度かは、友人知人の飼い猫に触れたり、引っ掻(か)かれたりした経験はある。だがそれも数えるほどであり、私の猫に対する意識や認識といったら、もっぱら創作物や読み物から得られたものである。

 たとえばそれは、保坂和志の一連の小説だ。ある時期から保坂が書くものには、猫が出て来ないことの方が稀(まれ)になった。最近はときどき犬も出てくるが、猫の方が圧倒的に多い。かつては小説の中では名前が変えられたりもしていたが、いつからかたぶんすべて実名となり、小説家とその妻、子供のいない夫婦が住まいの内外で世話をしている、いや、生活と人生をともにしている何匹かの猫たちの名前を、保坂の愛読者ならもうとっくに覚えてしまっているだろう。「ハレルヤ」(『新潮』4月号)は、そんな猫たちの一匹、花ちゃんの死が書かれた作品である。

 小説の記述によれば、花ちゃんは昨年の十二月十八日の夜に亡くなった。十八年と八カ月生きたというから、私はよくわからないが、猫としては長生きしたことになるようだ(私の実家の飼い犬は、確かその半分も生きられなかった)。

 だが、そういう問題ではない。花ちゃんとの出会いとその後の顛末(てんまつ)は、それから間もなく「生きる歓(よろこ)び」という短編に書かれた。今回の短編はそれと対になるものである。一匹の猫の生まれてまもない頃と、この世からいなくなる前後のことが、長い時間(それはつまり花ちゃんが生きていた時間だ)を隔てて、二つの小説になった。

 保坂の「猫小説」は、猫という生きものの生態や魅力が事細かに描かれているのでもあるけれど、それ以上に、猫という特別な存在を通して「死」と「生」、そして「世界」と「存在」のことを考える、考え続けるものになっている。この小説に限らないし、花ちゃん以外の猫のことも沢山書かれてきたわけだが、それは言葉にしてしまえば、哲学的と呼んだりされるようなものである。

 この小説でも語り手の「私」は、実にいろいろなことを考える。それは秩序立ったものではなく、思いつきのようにとりとめもなく、どこまでも漂い流れてゆくようで、しかしやはりどこかに一本の芯のようなものが通っている。それも言葉にすれば「悲嘆」とか「かなしみ」とか名づけられるだろう感情なのだが、それにしてはむやみと理屈っぽい。この理屈っぽさが保坂の小説の特徴である。心で感じている悲哀を頭で納得しようとするのと、頭でひねり出した理屈を心が凌駕(りょうが)してくるのが、速度を変えつつずっと廻転(かいてん)している、そんな感じだ。

 ペット・ロスという便利な言葉があり、飼い猫(飼い犬)の死について書かれた小説も数多い。その存在がこの世界から不意に旅立っていってしまったとき、ひとはどうしても「他でもない(わたしの)この猫」のかけがえのなさを思うことになる。だが保坂の思考は、その「他でもない」を突き詰めた果てに、もっと普遍的と言ってもいい領域に達している。

 普遍的という言い方が大袈裟(おおげさ)なら抽象的と言い換えてもよい。抽象的が小難しく感じられるのならば「個とか私を超えたところ」とでも言っておこう(もっと小難しいかもしれないが)。誰だって愛するものがいなくなったら悲しいし、悲しんでいるひとを見れば気持ちが伝染もするわけだが、そのような共感の連鎖から遠く離れたところまで、保坂の小説は読者を連れてゆく。

 彼にとって、それは猫でなければならず、花ちゃんでなければならないのだが、にもかかわらず犬派の私も揺り動かされ、猫か犬か人か他の生きものかに関係なく、この世界に在るということと、この世界が在るということの、矛盾と奇跡の両方が胸に迫ってくる。

 「ハレルヤ」の冒頭の一行は「かぐや姫は地上の人間がどれだけ手を尽くしても月に帰るのを止めることができない」である。「地上の人間」と「止めることができない」がポイントだ。

 保坂の小説は、明らかに彼自身のほんとうのことしか書かれていないのだが、小説家が自分のことをモデルにして、事実に即して書かれた小説、すなわち「私小説」とは似て非なるものである。嘘(うそ)や虚構が混じっているからではない(そんなことは私にはわからない)。私小説にだって嘘も虚構も書かれているだろう。そうではなく、彼にとって、書くことの出発点にあるものも、その視界の先にあるものも、明らかに「私」ではないからだ。もっと大きな何かが、そこでは相手取られている。だが、それを名指すことは、今はよしておきたい。

 (ささき・あつし=批評家)

 

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