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沼田真佑「夭折の女子の顔」 多和田葉子「文通」 佐々木敦

文芸時評

2017年12月28日

 沼田真佑(しんすけ)「夭折(ようせつ)の女子の顔」(『すばる』1月号)は、デビュー作「影裏(えいり)」で芥川賞を射止めたこの幸運な作家の確かな才能をあらためて実感出来る秀作だ。始まりはこうである。「そのころのぼくは支離滅裂で、うわべは澄ましていたけれど、実体は各種体によくない悪感情でだぶだぶの、負のドラム缶みたいなものだった」。語り手の「ぼく」は中学一年生で、いじめに遭ったわけではないのに二学期の終わりから不登校になってしまう。それはもっぱら「ぼく」が学校のほとんどあらゆる事どもを軽蔑し嫌悪してしまうことによるもので、したがって学校に行かずに済めば「ぼく」の魂の平安は保たれるのだが、娘のそのような状態は必然的に彼女の家族に擾乱(じょうらん)を惹(ひ)き起こす。

 そう、一人称は「ぼく」だが、語り手は女の子なのである。このことは割と早めに明らかにされるが、最初からは述べられず、彼女が「ぼく」を使用することにかんする説明も特にはない。これは語り手のセクシャリティや内面が絶妙に伏せられたまま語られる「影裏」と同様の、この作家の得意技(?)である「意図的な書き落とし」だが、やはり「影裏」と同じく、すこぶる効果的である。

 「ぼく」はやがて、盛岡に居る母親の妹、つまり彼女にとっての叔母のもとへと送られる。母親的には一種の転地療法のつもりだったようだが、行ってみると叔母は笠井という男性と同居していた。二人は恋人同士だが結婚はしていない。笠井はかつてはちゃんと働いていたというが、今は無職でほとんど家にいる。叔母は笠井の存在を「ぼく」の母親には秘密にしている。叔母はまもなく三十四歳、笠井は三十五歳。三人の奇妙な共同生活が始まる。

 叔母は広告会社に勤務していて日中は「ぼく」と笠井の二人きりなのだが、叔母も安心しているように笠井にはロリコン的な性質はない。それどころか笠井はおよそ欲望や熱情といったものの存在を感じさせない不思議な男で、ただ淡々と無為に日々を過ごしているのだが、それでいてだらしがないのでも能力がないわけでもなく、「ぼく」が来る前までは家事を一手に引き受けていたらしい。叔母はそんな笠井にふがいなさを感じている。ところが笠井は「ぼく」が同居してからしばらくするとひとりで外出するようになる。何をしているのかと思えば釣りに行っているのだった。そのことが叔母に露見すると彼は釣った山女魚(やまめ)を食事用に持ち帰るようになる。やがて遂(つい)に叔母の不満が爆発する時がやってくる…。

 盛岡と釣りという要素は「影裏」と共通しているが、一作目から目を引いた達者な文体は中一女子を語り手とすることで良い意味での軽みを獲得している。だが終盤にいきなりせり上がってくる真の主題らしきものは非常に大きく、かつ厄介なものだ。印象的な題名には思いがけない意味が込められているのだが、それについては触れないほうがいいだろう。こういう書き方でこんなテーマに挑むことが出来るのかと読み終えて舌を巻いた。

 『文学界』1月号が「珠玉の小説館」と銘打って七人の短編を掲載している。その中でも巻頭に置かれた多和田葉子の「文通」が際立った傑作だと思った。四十一歳になる小説家の陽太には舟子という恋人がいる。舟子には十歳の娘がいるというが陽太はまだ逢(あ)ったことがない。しかし語りは舟子との関係には向かわず、陽太が高校の同窓会に出席した時の話に移っていく。

 二次会の席で彼は血の繋(つな)がらない従兄弟(いとこ)の浮子に話し掛けられる(彼女がどうしてその場に居たのかは説明されない)。二人は高校生の頃、ある出来事がきっかけで長く文通していたのだった。陽太は浮子との手紙のやりとりを思い出す。しきりに直接会うことを求める彼女に対し、実はその気がない彼はさまざまな口実を弄(ろう)してなんとか逃れようとしていた。しかし浮子は諦めず、遂に陽太は最後の手段に出たのだった。数十年も昔の恋愛とも呼べない顛末(てんまつ)を回想するうち、いつしか陽太は夢うつつと虚実の混濁する渦にのみ込まれてゆく。

 最終的に何もかもがあやふやで不確かな世界に陥ってしまうのだが、そうなっていくまでの過程が、ほとんど眼前で奇術でも見せられているような鮮やかさで描かれる。この作家ならではの卓抜な言語遊戯や破天荒な自由連想が随所で思い切り物語を跳躍させながら、セクシャリティやアイデンティティーをめぐる問題という観点からも多様な論点を引き出し得る興味深い細部に満ちている。

 最初の方に「小説の続きがこれから先どうなるのか、作者自身は知っているとでも思っているんだろうか」という問いかけが出てくる。これは多和田自身の本音だったのかもしれない。或(あ)る種の作家は、自分の小説が「これから先どうなるのか」を知らないからこそ書くことが出来る。だが同時に、それは別の仕方で、やはり「知っている」のだ。そうでなければ、こんな小説を書けはしない。

 (ささき・あつし=批評家)

 

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