XMenu

山下澄人「しんせかい」 『すばる』特集「読む温泉」 佐々木敦

文芸時評

2016年6月30日

 山下澄人「しんせかい」(『新潮』7月号)を、目が覚めるような思いで読み終えた。今月はこの作品のことだけを書いてもいいくらいだ。目が覚めると書いたが、それと同時に、これは夢を見ているみたいな小説でもある。どちらでもよい。目が覚めたからにはさっきまで眠っていたのだろうとか、夢であるからにはいつか目覚めるのだろうとか、そういった当たり前の区別がまったく通用しないところで書かれている小説でもある。これまで聴いたことのない美しい音楽を聴いているような小説だ。

 「ぼく」という語り手は「やました すみと」という名前で、やがて「スミト」と呼ばれるようになる。ぼくは間違えて配達された新聞に載っていた「二期生募集」という記事を読んで、生まれ育った土地からはるか遠くにある、有名な脚本家だという【先生】の主宰する学校みたいなもののある【谷】にやってくる。そこは入学金も授業料も一切かからない、基本的に【先生】のお金で運営されている、映画やテレビの俳優や脚本家を育成するための全寮制の学校みたいなもので、ぼくたちはその二期生に応募して選ばれたのだ。

 ぼくはそれまで自分が俳優になりたいのかどうかもわかっていなかったが、ブルース・リーや高倉健にはなりたかった。【谷】ではお金を取られないかわりに馬たちの世話をしなければならない。それだけでなく、自分たちが住む建物も自分たちで造ったりしなければならない。他にもいろいろと肉体労働がある。むしろそちらの方が大半を占めている。しかしもちろん授業もある。期間は二年間である。この作品は、ぼくの【谷】での二年間をただ書いていくだけの小説である。

 ただ書いていくだけと書いたが、しかし幾つかの特徴があって、その最大のものは、ぼくが思い出している、ということだ。当たり前だと思われるかもしれないが、そうではない。たとえばあるひとりの人物が、自分が過去に体験したことを回想しつつ書いているという体の小説はよくある。というよりも「ぼく」などの一人称で書かれた小説は、それ以外のことは出来ない。一人称の小説は常に過去形なのだ。だから当たり前なのだが、そんな当たり前を超えて、この小説は「ぼくが思い出している」という感じが強く迫ってくる。強いと言ってもそれはテンションが高いとか押しつけがましいということではなく、むしろ書かれ方は淡々としているのだが、にもかかわらずこの「思い出している感じ」はとても麗しい。

 懐かしいとかとは違う。ぼくはまったく懐かしがってはいない。ただ思い出している。それも極めて詳細に、克明に。おそらくは遠い過去の【谷】の日々のさまざまな出来事が、幾つもの場面が、まるでいまそれを体験しているかのように描写される。それはほんとうに、ぼくの目の前にいま見えているかのようだ。だがそんなことはないし、そんなわけもない。単なる回想ではない。いや、ほんとうの回想は、むしろこんなものなのではないか。いや、これはやはり回想ではない。だってこれは小説なのだから。フィクションなのだから。

 山下澄人は、小説家になる前は劇団を主宰して作演出と出演をしていた。その前は倉本聰の富良野塾の第二期生だった。だからといって【谷】は富良野とは限らないし、【先生】が倉本聰だともどこにも書いてない。ぼくと作者の名前が同じなのも、これが実体験に基づく小説であることを保証してはいない。こういうことは小説を読む際の大前提だと思うが、それでもしかし、むしろ私は、ぼくは山下澄人なのだと言ってしまっていいような気がする。だがしかし、それはいわゆる「私小説」的なものとは、どこかが決定的に違っている。そしてその違い方こそ、この小説の最大の魅力だ。願わくば、この小説の清新さと大胆さが真っ当に評価されますように。

 『すばる』7月号の特集は「読む温泉」。何だそれはと思ってしまうが、別府大学で行われた同学講師でもある澤西祐典(さわにしゆうてん)と、円城塔(えんじょうとう)、福永信(しん)の鼎談(ていだん)と、温泉にまつわる三人の短編(鼎談中にも三人の「別府小説」の掌編が挟み込まれている)、上田岳弘(たかひろ)や村田沙耶香、中島たい子などのエッセイ、大澤信亮(のぶあき)の評論で構成されている。てっきりのほほんとした湯加減の良い特集かと思ったら、土地や固有名などをめぐる、かなりハードで原理的な小説論が展開されており(この顔ぶれなら当然かもしれないが)、思わず看板に偽りあり、偽装温泉と言いたくなったが、むろんこれは冗談である。しかし『憲法の無意識』(岩波新書)にかかわる柄谷行人へのインタビューを中心に据えた『文学界』7月号の特集「民主主義の教科書」と並べてみると、文芸誌の特集も、ずいぶんと手を替え品を替え感が出てきたものだと思う。

 (ささき・あつし=批評家)

 

この記事を印刷する