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多和田葉子訳「変身」 滝口悠生「ジミ・ヘンドリクス―」 佐々木敦

文芸時評

2015年4月30日

 前口上的な文言を記したほうがいいのだろうか。わたしはいまだもって「文学」なるものが結局のところ何であるのかを知らないし、知るための努力もさほどしていないと思う。だがそれでも「文学」の専門誌ということになっている文芸誌や、そこから生まれた「文学」の本などなどを、あれこれ読んでみることはできる。読んでしまえば何かを考えたりもするし、考えたことを書けもする。そうして自分が書いたことをたまたま読んだ誰かが、まだ知らない世界へと誘われたり、知っているはずの世界の見方が変わったりするといいなと素朴に願っている。そうしたことに比べたら、そもそも「文学」が何であるのかなんて、大した問題ではない。

 滝口悠生(ゆうしょう)の中編「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(『新潮』)は、二〇〇一年の九月末、当時大学一年生だった「私」が、ひとりバイクで東北を旅した時に体験した幾つかの出来事を、いまや妻子もある二〇一五年の時点から回想しながら、そのあいだに位置する複数のエピソードを交え、あの頃から現在までに横たわる短くはない歳月が、どのように過ぎ去ったのかに思いを馳(は)せる、という小説である。こう書くとなんだかややこしいが、実際はもっとややこしい。時間軸はやたらとあっちこっち跳び回るし、あからさまな省略や欠落もある。まるでいま目の前にあるかのように克明に覚えていることと、ぼんやりとしか思い出せないことと、すっかり忘れて時間の底に消えてしまったこと。かと思えば、とつぜん蘇(よみがえ)ってくる記憶だってある。つまり、思い出すとはどういう行為なのか、がこの小説のテーマである。高校時代の破天荒な美術講師との恋。大学の先輩への片思い。自主映画を撮る親友。いわきで出会った東京電力に勤める男たち。仙台のアーケード街でジャンベを叩(たた)くストリート・ミュージシャン。酔っぱらいのおじさん。途切れ途切れに語られる挿話はいずれも魅力的だ。題名は不世出のギター・ヒーロー、略称ジミヘンが率いていたバンド名だが(「私」がジミヘンに影響されてライブでギターを燃やし、エスカレートして焚(た)き火しながら演奏するようになる展開には爆笑した)、ジミヘンが得意としたフィードバック奏法のように、幾つもの思い出が増幅されながら回帰してきては、また遠くへと戻ってゆく。全部がうまくいっているわけではないとしても、とても好ましい作品だと思う。この小説が描く時間には「二〇〇一年九月十一日」と「二〇一一年三月十一日」が含まれている。どのように描かれているのかは、ぜひ読んで確かめてみてほしい。

 多和田葉子によるフランツ・カフカの新訳「変身」(『すばる』)は、「へんしん」ではなく「かわりみ」と読ませる。多和田は長年ドイツに住んでおり、日本語と独逸(ドイツ)語の両方で作品を発表しているが、こうした翻訳はほぼ初めてではないか。しかも相手はカフカである。冒頭はこうだ。「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒(さ)ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄(にえ)にできないほど汚(けが)れた動物或(ある)いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた」。ウンゲツィーファーはこれまで害虫とか毒虫と訳されてきたが、多和田は語源に遡(さかのぼ)って、より多義的な意味合いを残している。「変身」の日本語訳は複数存在しているが、多和田の言葉選びは妙にゴツゴツとしていて、けっして悪い意味でなく、読み進めながら何度も引っかかった。近年流行の「古典新訳」的な読み易(やす)さとは一線を画しているが、かといって「小説家による翻訳」ということだけで理解するべきものでもないように思う。逐語訳とも超訳とも異なる、多和田がカフカを読む声が、原語と日本語で二重に聞こえてくるような翻訳だ。カフカが「変身」を書いたのは一九一二年だから、すでに百年以上が経(た)っているわけだが、かつて「不条理」などと呼ばれたグレゴール・ザムザの運命、そして彼の変身に翻弄(ほんろう)される家族の運命は、いまや何度目かの新たなリアリティーを映し出しつつあるように思われる。近未来のグロテスクな日本の姿を幻視した問題作『献灯使』(講談社)に続く多和田の仕事が、たまたまではあれこれであったことは、よくよく考えてみるに値するのではないか。

 星野智幸の長編一挙掲載「呪文」(『文藝』夏号)は、時代の変化に取り残され、急速に寂れつつあった商店街に現れた救世主と、彼の思想の不気味な正しさが、生きにくさと自己承認欲求に喘(あえ)ぐ若者たちを無意味な(だが、それゆえに意味があるとされる)自死へと煽動(せんどう)してゆくプロセスを、巧みな構成で物語る。舞台は小さな町だが、作者が見ているのはもっと大きな何かだ。それはかつては不条理と呼ばれたものかもしれない。しかし今、それは単に「現実」と呼ばれる。(ささき・あつし)

 *今月から批評家で早稲田大文学学術院教授の佐々木敦氏が文芸時評を担当します。

 

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