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「不思議」の話 幽霊がすまう国で

考える広場

2018年8月18日

正司歌江さん

 お盆のころは、今は亡い人々に思いが至る。霊的なものが身近に感じられるせいか、怪談が人気を呼ぶ。そこで語られるような「不思議」は人間の想像力を刺激して芸術作品を生むと同時に、理性をくらますオカルトにもなってきた。その怪しい魅力について考える。

 <怪談> 幽霊や妖怪などに関する怪異で恐怖心を呼び起こす物語は、古くは「今昔物語集」「宇治拾遺物語」などにも見られる。江戸時代には「百物語」という怪談会が流行し、多くの話がまとめられた。それは演劇・演芸のネタにもなり、歌舞伎の「東海道四谷怪談」、落語の「怪談牡丹灯籠」などの傑作が生まれた。その伝統は、現代でもジャパニーズホラーと呼ばれる小説や映画を生みだし続けている。

◆不可解祈りに向かう 「かしまし娘」長女、女優・正司歌江さん

 小さい頃から第六感が働く方でした。旅芸人の一座に生まれ育ち、数え年三歳で初舞台を踏みましたが、「今日はお客さんが入る」「入らない」と言い当てたり、「あの人は病気になる」と予言したり、周囲から不思議がられていました。

 自分でも嫌になるのは、誰かが亡くなるのも分かってしまうことです。

 あれは昭和五十七(一九八二)年、栃木県那須高原のホテルで講演の仕事がありました。会場に着いて、控室で主人と仕事関係の人と一緒にテレビを見ていたんです。映っていたのは、当時人気絶頂のコメディアン三波伸介さん(初代)。

 開演時間が近づいて部屋を出る時、「この人亡くなるわ」という言葉が口を突いて出た。主人たちがそのままテレビを見ていたら、テロップが流れたそうです。何だろうと見たら「三波伸介さん急死」。ぞーっとしたそうです。何で分かったのか? どこか影が薄かったから、としか言えません。こんなことは何度もあって、顔がぼんやりとしか見えない人もいました。

 会いに来た人も。公演先のホテルの部屋を知り合いの芸人がノックした。中に入れて「あんた何してんの?」と聞いたら「師匠、私、死んだんですわ」って。「ああ、そう」なんて会話して。いつの間にか消えて、翌朝、訃報が届きました。怖くなって主人を呼んだら、部屋は線香のにおいが強くしたそうです。

 人が亡くなるとか、そんな言葉は言いたくないですよ。でも、聞いてほしくて言ってしまうのね。感じたことを自分だけで持ってられないの。苦しくて。ここ十年は体が弱くなったせいか感じなくなりましたけど。

 こういう不可解、科学でも説明のつかないことは世の中にいっぱいあります。自分の理性や意志ではどうにもならないものがあることを知ることは大事じゃないですか。やれることをやり尽くしたとき、自分の力ではどうにもならないとき、人は初めて祈ることに向かうんです。

 でも、神仏に手を合わせるというのは神仏にすがることではないと私は思っています。合掌って自分の方に向けてますよね、相手の方ではなくて。だから、私は祈るとき、必ず「私も頑張りますから、お願いします」と唱えるんです。祈るとは、自分自身を信じる、自分を拝むことではないでしょうか。

 (聞き手・大森雅弥)

 <しょうじ・うたえ> 1929年、北海道生まれ。56年に妹の照枝さん、花江さんと結成した「かしまし娘」は今年3月、「上方演芸の殿堂入り」に選ばれた。著書に『かしまし人生相談』『女やもン!』など。

◆怪談が人に寄り添う 作家・辻村深月さん

辻村深月さん

 私は昔から怪談が大好きでした。それはなぜか、と考えると「目に見える物だけが全てではない」という考え方を体現してくれているから。多くの人にとって、日常の世界は学校と家、会社と家の往復で、コースも人間関係も決まっています。そんな平たんな日常の中で「怪異」を想像することには、恐怖もあるけど、同時に遊び心もあるんです。「路地裏に入ったときに不思議があるんじゃないか。幽霊がいるんじゃないか」。見ている世界や景色に奥行きを感じさせてくれるのが怪談でした。

 子どものころは全力で怖がっていました。でも、子ども向けの怪談は、命の危険を伴うような現実の恐怖とは違う、概念上の純粋な恐怖。そういう怪談の中で幽霊を怖がるのはすごくぜいたくな遊びでした。小説を書く想像力もそうやって培われてきたんでしょうね。

 幽霊は怖いかもしれませんが現実の教室や会社がつらいと感じたら、幽霊が助けてくれると思うこともあるかもしれません。だから子どもは学校の廊下、音楽室の隅に怪異が潜んでいてほしいと思う。「怖いからいてほしくない」ではなく「怖いからいてほしい」という気持ちにもなるのではないでしょうか。

 怪談は人の魂を信じるところから始まります。日本人の死生観は、お盆に魂が帰ってくると信じるところに表れています。「死んで終わり」ではないんです。死んだ向こうに魂があると信じ、その魂たちと共に自分もいると感じています。 

 「怪談」で語られる死者にも遺族がいます。私が以前書いた怪談に対して、読者の方から手紙をいただきました。「亡き長男のもとに行こうと思ったこともあったけど、この話を読んで『生きていてほしい』と長男も思っているかもしれないと思いました」。それまで私にとって怪談は好奇心や想像力を広げる遊びの場でした。様式美が優れた作品に出合うと「こんな手法があったのか」と発見することも。でも、その手紙を読んで自分が怪談を好きな理由がより分かった気がしたんです。

 怪談は、人が誰かを喪失したときには、その喪失感に寄り添うものでもあります。幽霊は自分とは違う存在と思いがちですが、自分もいつかは死んで、そうなっていく。それに気づいてからは仲間のような温かい存在だと思うようになりました。

 (聞き手・清水萌)

 <つじむら・みづき> 1980年、山梨県生まれ。2004年、作家デビュー。12年に『鍵のない夢を見る』(文芸春秋)で直木賞受賞。『かがみの孤城』(ポプラ社)で18年の本屋大賞受賞。

◆「物語」と科学を区別 認知心理学者・菊池聡さん

菊池聡さん

 「幽霊はいない」と、実証的に証明することはできません。いないとは断言できない。それが論理的必然です。しかし、だから「幽霊はいる」ということにはなりません。「幽霊を見た。心霊現象を体験した。だから幽霊は存在する」という主張に対し、一つ一つ検証していくのが科学的な立場です。

 心霊現象に関しては、科学的な思考で追っていく考え方と、「物語」として捉えるという二つの文脈があります。心霊現象は物語として人の心の中に確実にあります。私はそれを尊重する立場です。亡くなった人の霊が訪ねてきた。それは科学的にはフィクションであったとしても、その人にとっての真実性は損なわれません。ただ、物語の中で成立することが、それだけで科学的に証明されたというのなら間違いです。二つの文脈を分けることが必要です。

 人間の頭の中で働く情報処理システムは大きく二つに分かれます。直感的で感情に支配されるシステムがまず働き、その後で合理的、科学的なシステムが働きます。前者が物語としての心霊現象に関わっています。科学的に幽霊はいないと思っている人でも夜中に墓地に行けば不気味に感じるのも前者が関係しています。

 認知心理学はコンピューターの発達と情報理論に影響を受けています。人間の認知の働きは一種の情報処理システムと考えられます。知覚から情報を入力して蓄積し、検索して処理します。

 知覚の代表が視覚ですが、人間は目ではなく、実は頭でものを見ています。網膜に映る画像は曖昧で、いろいろな解釈ができるものです。私たちは、もとから持っている知識や経験を使って、無意識的、瞬間的に一つの解釈をします。解釈したものが視覚情報です。壁の染みが幽霊に見えるとしたら、頭がそう解釈したからです。その解釈がその人にとっては現象を統一的に説明できるからです。知覚だけではなく、記憶や思考といった認知システムのあらゆる面で同じことが起きます。

 霊感が強いという人がいます。しかし、人間の認知システムの特徴という全く別の捉え方もあり得ると相対化する考え方も大事です。身近な人の霊を思う心は大切です。ただ、一方で冷静な目を持っていることも重要だと思います。

 (聞き手・越智俊至)

 <きくち・さとる> 1963年、埼玉県生まれ。京都大大学院教育学研究科博士課程中退。信州大人文学部文化情報論分野教授。『超常現象をなぜ信じるのか』(講談社ブルーバックス)など著書多数。

 

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