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きょうも向き合う−震災から7年−

考える広場

2018年3月10日

大久保金一さん

 東日本大震災から、あす十一日で七年。復興を願い、いろんな人が独自の活動や研究を続けている。決して「上から目線」にはならず、被災者や東北地方と正面から向き合いながら。

 <東日本大震災> 2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源に起きたマグニチュード(M)9・0の地震と津波による震災。死者・行方不明者1万8400人余、建物の全半壊40万戸余。東京電力福島第一原発は、1〜5号機で全交流電源を喪失して一部の炉でメルトダウン(炉心溶融)が発生。復旧はまだ入り口。

◆米作れぬ田を桜色に 「花の仙人」・大久保金一さん

 わが家があるのは飯舘(いいたて)村の中でも、ここから先は道がないという山奥の谷です。父親が戦後に入植し、炭焼きをしながら、少しずつ田んぼを切り開いた。

 ところが原発事故で全村避難だもの。そりゃあ残念だった。

 ここは標高が高くて寒いから米づくりも難しい。毎朝、五時に起きて、こまめに水温を測り、それこそ手塩にかけて稲を育てたんだ。ところが汚染された田でつくった米は食べられないという。誰が毒を降らせたんだ。体から力が抜けていった。

 仕方がないから、田んぼや畑に桜の木を植えることにした。

 避難先の仮設住宅から一時帰宅で通って去年までに八百本を植えた。去年の春に避難指示が解除されて、ここに帰ったが、今年は二百二十本の苗木を注文してある。私は年だし、明日をも知れぬ身だけれど、いつかこの谷が桃色に染まる春が来るだろうよ。その光景を空の上から見られたらいいなと思う。

 実は、この谷に花園をつくるのは昔からの夢だったんだ。

 まだ二十代のころ、結婚を考えた女性がいたんだよ。東京に出稼ぎに行って、休日に東京見物しようと、はとバスに乗った。そこで同じ福島県出身の女性と出会った。気が合っておつきあいし、この家で二カ月ほど一緒に暮らした。ただ私の母はその人をあまり気にいらないようだった。そんなことで実家に帰ってしまったのさ。

 寂しくてさ。一年もかけて母を説得して迎えに行った。そうしたら、女性は交通事故で亡くなっていた。女の子の赤ん坊も一緒に亡くなったそうだ。

 絵が好きな人で、よく裏の山でカタクリやらクリンソウやら野の花のスケッチをしていた。花を集めて花園をつくろうと話をしたのは、そのころだ。

 名前はマキバノハナゾノと決めた。この一帯は元放牧地でマキバと呼ばれていたんだ。

 あれから見合いの話も何度かあったが、全部、断った。二〇一五年に九十八歳で母が亡くなり、それからは一人暮らしだ。ネコが八匹いるけれどもね。

 原発事故で人生は変わった。米づくりをできれば続けたかったが得たものもあった。

 村に支援に入った大学の先生たちが桜の植樹を手伝ってくれ、花を縁に全国に知り合いができた。孫のような大学生が農業体験に来たことも。桜の花園は、きっと彼らが守ってくれるでしょう。

 (聞き手・坂本充孝)

 <おおくぼ・きんいち> 1941年、福島県生まれ。同県飯舘村で農業に従事。全村避難後に農地に花樹や野の花を植えたマキバノハナゾノづくりを開始し、「花の仙人」と呼ばれるようになった。

◆被災地を外部へ開く アートユニット・小森(こもり)はるか+瀬尾夏美(せおなつみ)

小森(こもり)はるかさん(写真右)、瀬尾夏美(せおなつみ)さん(同左)

 震災直後、美大生だった私たちは東北へ向かいました。印象的だったのは、困難な状況の中で暮らしを続けていこうとする人々の姿です。そのようなささやかな所作を大切なものだと感じましたが、当時は作品にしようとは考えていませんでした。

 一年ほど被災地に通い、都市部で報告会を開きました。しかし、報道や専門家でない立場で被災地の様子を報告することに限界を感じ、作品に昇華し、それを通して伝えるべきだと感じました。私たちが重要だと考える個人の生活や言葉を自分の身体感覚で受け止め、その都度最適な表現方法を模索すべきだと思い、震災の翌年、岩手県陸前高田市に拠点を移しました。

 私たちの役割は、被災地に立ち上がるささやかな営みを記録し、中と外とをつなぐ回路をつくり、外部へと開くこと。媒介する仕事は、美術が根源的にやってきたことだと思います。被災地には家族や知り合いにはできない話を抱えている人もいる。聞かせてもらった話や、その場の風景を映像、絵、文章などに変換し、誰かへと受け渡す。

 被災地ではさまざまな形で分断が起きています。被災度の差に加え、経済格差や復興工事への考え方の相違などによって細かく分断されてしまう。個人の中にも相反する考えがある。正否を求めるのではなく、安心して考えられる領域が必要です。その場づくりの方法として、展覧会を開いています。例えば一枚の絵の前に立ったとき、何を感じるかは人それぞれでいい。未曽有の災害が起きたときこそ、美術にはできることがある。

 復興工事が進むと、被災者は二度目の喪失を経験しました。津波の後の風景は、思い出話をし、記憶を共有する場となっていた。それが物理的に埋められ、花を手向けることさえできなくなり、震災直後よりつらいと言う人もいます。注目されづらいかもしれないけれど、このような感覚は被災地に限らず、感じたことのある人も多い。これを形にしようと思いました。

 そうしてつくった巡回展を日本各地で開いていますが、鑑賞者が見て思い出すのは、もちろん東日本大震災でなくていい。その意味では、風化が問題であるとはあまり考えていません。ただ、今なお渦中で苦しんでいる人がいるのは事実です。だからこそ、じっくり考えられる空間づくりが必要だと思います。

 (聞き手・生津(なまつ)千里)

 小森さんは1989年、静岡県生まれ、映像作家。瀬尾さんは88年、東京都生まれ、画家・作家。2012年に岩手県へ移り、15年から仙台市在住。風景と人々の言葉の記録を軸に制作を続ける。

◆復興に死者との絆を 東北学院大教授・金菱清さん

金菱清さん

 阪神大震災を大阪で経験した時に、災害の切り取り方に疑問を持ちました。火災や高速道路が倒壊する現場の映像など、上からのまなざしばかり。人々がどう思い、行動したのかという視点が除外されている気がしました。その経験をもとに、学生たちと当事者の話を集め始めました。ただ、私たちでは地名すら分からない。等身大のリポートにするため、当事者が自ら書く形にしました。

 私たちの目的は、千年ぶりの大災害を記録として残すことでしたが、当事者には別の目的として使われていました。自分が書いた本を抱き締めたり、遺影の横に飾る人がいたのです。書くことは亡き人との思い出を心に刻み付ける共同作業だった。僕は「死者」を頭に入れていませんでした。しかし、そこを含めないと社会自体が成り立たないし、震災を理解したことにならないと気づきましたね。それで、被災者による幽霊や夢の語りに注目していきました。

 こんな幽霊体験が出てきました(著書『霊性の震災学』)。初夏の深夜、客待ちのタクシーに真冬の服装をした女性が乗ってきた。行き先に更地となった場所を言うので聞き返すと「私は死んだのですか?」と。驚いてミラー越しに後部座席を見ると、誰もいない…。その運転手は「恐怖心はない。また乗せるよ」と言うのです。普通なら「二度と出ないでくれ」と拝むところ。

 生と死は区切られていると思っていたけど、そうじゃない。生と死の中間的な領域、「間(あわい)」の世界で幽霊なり夢なりの現象がある。例えば、パソコンでデータをフォルダーに収めるかごみ箱に捨てるか判断に迷い、デスクトップに貼り付けておくことがありますね。「間」の世界はデスクトップに似ている。一時預かりの状態でもよいと思います。

 震災報道が減り、被災者は社会的な孤立を深めています。塾の勧誘電話で子どもが亡くなった旨を説明すると「名簿から削除しておきます」と言われたり、学校のホームページから子どもの写真が勝手に消されていたり。生きていた証しすら葬り去るような近代的な生者優先のあり方に、夢や幽霊はメスを入れている。「復興」には、死者を忘れることを前提にし、今を生きている人が歩むべき道を示すイメージがあります。復興のアンチテーゼとして、死者との絆を再考・再興したいですね。

 (聞き手・飯田樹与(きよ))

 <かねびし・きよし> 1975年、大阪府生まれ。関西学院大大学院博士課程単位取得満期退学。専門は災害社会学。編著『私の夢まで、会いに来てくれた 3・11亡き人とのそれから』。

 

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