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国や民族よりも個人 初の小説出版、在日の現実発信 ヤンヨンヒさん(映画監督)

土曜訪問

2018年8月4日

 「私が在日だってこと、朝鮮人だってこと、気にしてほしいの!」

 映画監督のヤン ヨンヒさん(53)が出版したばかりの初の小説、『朝鮮大学校物語』。その主人公、朝鮮大学校生のミヨンは「そういうこと気にしてないから」と言う日本人の恋人に、こう叫ぶ。初めてベッドを共にした、そのすぐ後で。

 アルバイトの面接で、本名を使うと断られる。そんな日本社会にはびこる差別によって、民族性をいやおうなしに意識せざるを得ない在日コリアン。それを「気にしない」と言われるのは、優しさではなく、存在自体を無視されるのと同じ−。

 「日本人との恋愛と、卒業後に朝鮮学校の教員になるのを拒否するところ以外は、実話のパッチワークです」。小説にも登場する東京・国分寺の喫茶店「ほんやら洞」で、ヤンさんはくつろいだ様子で話し始めた。

 大阪のコリアンタウン、鶴橋で生まれ育った。両親は、現在は韓国となった済州島の出身。父は民族運動の活動家で、ヤンさんも小学校から大学まで朝鮮学校に通った。年の離れた兄三人は一九七〇年代、「祖国建設」をうたう「帰国事業」で、北朝鮮に渡った。

 「私の作品は在日を知るための入門編。在日の歴史や現実を知っていることを前提に話せる世の中になったら。それを人生かけてやっているの」とヤンさんは言う。その言葉通り、手掛けた作品はすべて自分と家族がテーマだ。最初に注目されたのはドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」。父母にカメラを向け、兄たちに会いに北朝鮮へ行って撮りためた映像を十年がかりでまとめた。

 身内が撮影するから素顔の日常が撮れた。北朝鮮の兄たちの家では、あどけない甥(おい)や姪(めい)が宿題をし、食卓を囲む。「北朝鮮と言った瞬間に突如壁ができて、『あちらの人』になる。でも、当たり前だけど普通の人間の暮らしがあるんです」

 繊細だった長兄は「金日成(キムイルソン)主席の生誕記念に、在日の若者を祖国に捧(ささ)げる」事業で北朝鮮に送られた。当時、北朝鮮では西洋音楽が禁じられていた。大好きなクラシックを聴いたことを非難され、自己批判を強いられて、精神を病んだ末に亡くなった。

 映画では、老いた父が、息子全員を帰国させたことを「行かせなくてもよかったかもしれん…」とふと漏らす場面がある。初めて聞いた本音だった。ヤンさんは「カメラを向けながら信じられなかった」と振り返る。

 だが、映画の発表後に待っていたのは北朝鮮への入国禁止処分。謝罪文で処分が解かれるかもしれないと言われたが、書かなかった。「表現者の覚悟をなめるなよ、と思う」。その一方で、人質と同じような状況の北朝鮮の家族を思えば「いつも、怖い。常に自分の恐怖心と戦っている」。

 俳優の井浦新、安藤サクラらが競演した監督作「かぞくのくに」は、十四歳で親元を離れた三番目の兄が、四十代で腫瘍治療のために一時帰国した実話を基にした。両親が手を尽くして実現した三カ月の帰郷は、北朝鮮からの一本の電話で打ち切られた。治療どころか、二週間もたっていなかった。国家権力の理不尽さの前に、個人がどれほど無力か。そんな現実を、映画の観客は妹の視点で体感した。

 今は母のドキュメンタリー映画を撮影している。最近、一九四八年に起きた済州島の住民虐殺「四・三事件」の体験者と知った。十八歳で、幼い妹や弟を連れて血の海を必死に逃げていた。母を思うと、ニュースで流れる難民の話がひとごとではなくなった。

 ヤンさんは「私はどこの国や民族の人間かよりも、自分であることが大事」と言い切る。二十代は親の希望通りに朝鮮学校の教員になって同僚と結婚し、一年半で離婚した。三十代でニューヨークに留学して映像を学んだことが、現在に至る転機となった。「物語に触れることは、誰かの人生に触れること」。だから、自分と家族の物語を世界に発信し続けたいという。

 小説『朝鮮大学校物語』では、北朝鮮で暮らす「姉」が主人公にこう語りかける。「どこで暮らそうが、国籍変えようが、自由にしたらええ。広い世界で生きなさい!」。同じく、ヤンさんの背中を押すのはきっと、今はもう会えない北朝鮮の兄たちの言葉だ。

 「幸せになりや」 (出田阿生)

 

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