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作品と同時代の目で 若冲ブームの仕掛け人 狩野博幸さん(美術史家)

土曜訪問

2018年6月2日

 忘れられない展覧会がある。一九八四年秋、京都国立博物館(京博)。俵屋宗達(たわらやそうたつ)の国宝《風神雷神図(ふうじんらいじんず)》から伊藤若冲(じゃくちゅう)の《鳥獣花木図(ちょうじゅうかぼくず)》《動植綵絵(どうしょくさいえ)》まで、江戸絵画が人気の今なら一点でも目玉になる作品がめじろ押しだった特別展「近世日本の絵画−京都画派の活躍」。手掛けた学芸員は十六年後に「没後200年若冲」展を企画し“若冲ブームの仕掛け人”と呼ばれるようになった。現在は美術史家として活動する狩野博幸(かのひろゆき)さん(70)を、京都市内の自宅に訪ねた。

 「八四年の展覧会は博物館活動の出発点でした」。初めて一人で企画・執筆した展覧会だった。文部技官の研究職として京博に入ったのは八〇年。奈良の帝塚山大の助教授からの転身だった。「京博の美術室長がいきなり大学にお見えになり『近世絵画の担当者の最終候補になっています。来る気はありますか』と言われて、びっくりしました」。作品がじかに見られる魅力に引かれ、教授への道が約束されているポストからヒラの学芸員へ。前代未聞の転職に「大学で不祥事でも起こしたんじゃないか」と、うわさされていたことを後で知った。

 「勤務して最初に屏風(びょうぶ)の収蔵庫へ入り《風神雷神図》を見ました。(あぁ、いいところに来たなぁ)と天にも昇る気持ちになった」のも、つかの間。最初の給料袋を開けた途端「こんなに安いのかと腰が抜けてしまいました」。

 美術への道も思わぬ進路変更で始まった。福岡で生まれ、九州大文学部では国文学を専攻しようと思っていた。一年のときに、大学新聞が作家の高橋和巳らを審査員に迎えて一般公募した文学賞に佳作で入選。地元で「学生作家現る!」と期待され、いずれ作家になるつもりでいた。小説ばかり書いていて、国文学に進むには単位が足りず、やむなく美学・美術史専攻へ。

 卒業論文のテーマには葛飾北斎を選んだ。NHKドラマ「写楽はどこへ行った」で山崎努さんが演じた北斎の無頼さが、とにかくかっこよかったからだ。調べるうちに夢中になり、就職活動も忘れていたら、主任教授が大学院への進学を固めてしまっていた。

 大学院の修士論文でも北斎を取り上げたが、それはリベンジだった。大学の卒業論文は、シェークスピアやドストエフスキーなど文学的な知識を駆使して文芸評論のように書き上げた。口頭試問の際、学部長だった近世文学者の中村幸彦さんに自著の『戯作論(げさくろん)』を読むよう勧められ、一読して猛烈に恥じ入った。中村さんの研究は、古典はその時代の目で見て鑑賞するという哲学に貫かれていた。「僕は現代から北斎を見てしまっていた…」。修士論文の執筆では当時の人たちの視点、意識に徹底してこだわった。「以来、作品が生まれた時代の人たちの目で見るという立場からは絶対に動かなくなりました」

 同時代の目で作品を見る意義を痛感する一件が近年あった。

 狩野さんは二〇〇〇年の若冲展の図録で「若冲というひとには今でいう『オタク』の気味がありはしないか(中略)ひとづき合いも満足にできなかったであろう」と書いた。だが後に、彼が自らを育んだ京都・錦(にしき)小路高倉(たかくら)市場の存続闘争に足かけ四年の歳月をかけた史実が判明。若冲は「疑いようもない快男児だった」と修正を迫られる。

 二〇一一年には東日本大震災が発生。狩野さんはその一週間前に福島にいた。震災の動揺が収まらないまま、若冲の襖絵(ふすまえ)がある大阪・西福寺でテレビ収録があった。襖絵は、若冲が京都の町を焼き尽くした天明の大火で罹災(りさい)した後に手掛け、金地の《仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)》の裏に水墨の《蓮池図(れんちず)》が描かれた(現在は軸装)。蓮池図は一本の枯れた蓮(はす)が目を引く寂寥(せきりょう)感の漂う作品で「これまで非常に異常だと皆が言っていた」。だがこの日、枯れた蓮のわきに白いつぼみがぽっと浮かんでいるのに気がついた。「このつぼみに意味がある。若冲は京都の復興を願っていたんだ」。画家の人物像が変わり、自身も災害を経て、同じ絵が違って見えた瞬間だった。

 今も「小説は書かないの?」と聞かれることがある。「美術の魅力にとりつかれてしまったからなぁ」と漏らしつつ、新たな若冲像の展覧会を構想している。 (矢島智子)

 

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