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定説疑い、新解釈示す 『三成最後の賭け』を刊行 矢的竜さん(作家)

土曜訪問

2018年5月26日

 読書家の先輩記者に「最近、いい本ある?」と聞かれ「新潮社から出た矢的竜(やまとりゅう)さんの『三成最後の賭け』はどうですか」と答えた。「豊臣秀吉の朝鮮出兵は、政権奪取を狙った徳川家康にそそのかされたもので、石田三成はそれを阻もうとした、という新解釈を打ち出した歴史小説ですよ」

 「三成か。前から疑問なんだけれど、関ケ原の合戦で家康に負けて、当時の武将なら自害するのに、落ち延びて罪人みたいに処刑されるね。あれはなぜ?」

 その問いを考えるため、滋賀県彦根市に矢的さんを訪ねる。国宝の彦根城でも名高いこのまちには、かつて三成が居城とした佐和山城があった。作家はその城跡のほど近くに住まう。

 「実はその疑問が、私にも一番の課題でしてね」

 矢的さんが語る。今年七十歳。作家になる前は電子機器の製造会社などで多彩な仕事をこなしており、明快な口調で話す人だ。

 「三成は洞窟に隠れて捕まり、斬首されます。それが三成のイメージを一番悪くしている。でも、ここに住んで毎日のように佐和山を見ていると、三成を避けては通れない。ついに書こうと思った時に、何かその長所をと考えました」

 思い浮かべたのが、第二次世界大戦で日本軍がさらした醜態。たとえば中国では、民間人を置き去りにして逃げ帰った。だが秀吉の朝鮮出兵は負け戦同様だったのに、撤退の犠牲は小さかった。この点は秀吉の参謀として力をふるった三成の功だと描ける−。そう考えて朝鮮出兵について調べ始めると、驚くことばかりだった。「こんなひどいことをしていたのかと…」

 食料や衣類、家具調度や家畜を奪い、家や納屋は焼き払う。男は惨殺し、女は暴行してから殺す。死者の耳や鼻をそぎ、戦功の証拠品として日本に送った。

 「朝鮮に渡った三成も、その惨状を見て出兵を中止させようとしたのではないか。そして朝鮮の役が遠因となって豊臣家は滅ぶわけですが、じゃあ得をしたのは誰なんだと。家康です。おだてに乗りやすい性格の秀吉を家康がくすぐって、そそのかしたんじゃないかとひらめいたんです」

 こうして家康と、その策謀を見抜いた三成らの対立を、史実を踏まえて丹念に描いた。三成は正常な判断力を失った秀吉に面従腹背しつつ、時には死も覚悟する厳しい立場の中で、知力を尽くして家康と争う。

 「皮肉な見方をする人間なので、定説を疑うという姿勢が私の小説の根底にあります。通説では、三成と家康の対立は、秀吉が死んでから関ケ原の合戦までの二年です。しかし秀吉が出兵を言い出したとされる一五八五年から関ケ原までは足かけ十六年。その間の長い抗争が三成に関ケ原では死にきれないと思わせ、復讐(ふくしゅう)への布石を打つ執念となり、逃げ延びたのでは−と理屈を立てたわけです」

 この見立てを、自ら仮説と認める。文書など証拠はない。そこが作品の核だ。三成は、勝者の家康が証拠を徹底的に消すとみる。だからこそ罪人のように処刑され、家康の策謀の証しとして後世へ伝えるのだ。「それが真相だったかもしれないね、と思っていただけるかどうか。読者に勝負を挑んでいるのです」

 勤めていた会社を五十三歳で辞め、執筆の道に。公募の賞に何度も応募し、六十三歳でデビュー作『折り紙大名』を出したのは二〇一一年のこと。その折、本紙への寄稿で「『特異な切り口』の作品を一作でも多く送り出そうと心に期している」とつづっている。

 この誓いの通り、『折り紙大名』は、身分違いの者に書状を出して破滅に至る実在の大名の物語。その後も知られざる史実を掘り起こし、それを切り口に、歴史の新たな解釈や教訓を示す創作につなげてきた。

 「編集者には『今の売れ筋は、さわやかなキャラクターが登場し、変化に富んだシリーズもの。教訓めいた理屈はいらない』と言われます。でも、作者に都合のいい虚構をつくって、面白いフィクションに仕立てる、そんな小説は書けませんし、書けるよう努力する気にもなりません」。遅咲きの作家はそう述べると、これから世に問いたい作品の構想と切り口を、次々と語るのだった。 (三品信)

 

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