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あたくしは、あたくし 墨の創作80年 エッセーも話題 篠田桃紅さん(美術家)

土曜訪問

2018年2月3日

岩関禎子撮影

 墨と筆による抽象画で国際的に高く評価されている美術家の篠田桃紅(とうこう)さんは、三月で百五歳になる。創作歴はなんと約八十年。自身の生き方をつづったエッセーも人気で、昨年は『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』(幻冬舎)が、大きな話題になった。容易にたどり着くことができない地平から見える風景は、どんなものだろう。

 会う前に、寄っておきたいところがあった。岐阜県の「関市立篠田桃紅美術空間」。名前を冠した美術館だ。同市は、篠田さんの祖母が育った地。過去の著作では「美濃」と呼ばれるこの地方のことを<濃い、うつくしいくろの色を持つ墨>を連想させ、深い縁を感じると記している。訪ねた日は、米ニューヨークを拠点にしていた四十代のころの作品を展示中だった。縦横無尽に引かれた墨の線が、濃淡や太さでさまざまな表情を見せる。きっぱりとして、どこか品がある独創的な世界だ。

 じっくり堪能した翌日、いざ東京都内の自宅へ。「いらっしゃい」。着物姿の篠田さんが、ゆっくり現れた。つえを手にしているが背筋がすっと伸びている。

 年齢から想像していた様子とは違い、はっきりした口調。そして冗舌だ。たとえば自身の表現と切り離せない素材について。「墨はね、無限の表現力を持っているんです。明るさから暗さまで、何千何億の段階がある。どれだけ重ねても、真っ黒にはならず、わずかに明るい。中国の老子は、この色を<玄(げん)>と言いました。すべてを含んだ万物の根源のことよ」。ひと息に答えが返ってくる。

 書家として活動を始めたのは、二十代半ば。戦争の時期をへて、抽象画へと軸足を移していった。そのきっかけを「川」という漢字で説明する。「三本の縦の線だけで書いておけば、私は書道というジャンルの中で終わりました。けれど文字の決まりごとを飛び越えて、どのように線が描けるかを試してみたくなったんです」。やがて作品には、無数の縦の線、横の線が現れる。「富士山のてっぺんから下まで貫く線を引けたらどんなに面白いだろうというようなね、空想。遊びですよ。遠くまで、かけっこをしたくなった。私にしか描けない線で」

 独自のものを追求する姿勢は「もともとの性質ね」。子供のころは、習字の練習で、手本をまねることに強い違和感を持った。「だって偽物を作るっていうことでしょう。それがうまいとお点が良くなるって、変じゃない」。女学校では、制服に抵抗した。スカートのひだを細く加工し、先生から注意を受けたこともある。「個性という言葉なんて、使われなかった。わがままと言われましたよ。けれどあたくしは、あたくしに似合うものをと思っていただけ」。一九五〇年代、抽象絵画の全盛期だった米国に渡り、美術家として大きく花開いた。「自分を表現するところからアートが始まるということが、あちらではもう当たり前に理解されていたのね」

 現在も日々、筆を執り、作品づくりに励む。長く創作を続けていても「本当に満足したことは、ないかもしれない」と振り返る。「人々の心に、私の線が宿ること。それが願いです。でも人間ってね、うぬぼれているものなのよ。もっといいものができるって、どこかで思っているんです」

 百歳を超えたころから、造形作品とともに、人生を見据えた言葉で注目を集める。この五年で出した本は約十冊。エッセー集『一〇三歳になってわかったこと』は、冒頭で挙げた『一〇五歳〜』と合わせて五十三万部のベストセラーだ。「話題になるのは、私が珍獣だからでしょう。この年の人が何を考えているか、知りたいのね。でも、私はみんなが珍獣であればいいと思う。人のことなんか気にしないで、自分なりのやり方を通せばいい。周りと同じほうが楽って人も、多いのでしょうけど」。明るく声を上げて笑う。

 昼すぎから始まったインタビュー。篠田さんの体力が心配で、早めに切り上げようと思っていた。だが話すほどに、口調に熱がこもる。いつの間にか日が傾き、部屋がすっかり暗くなっていた。 (中村陽子)

 

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