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羽ばたく弟子…幸せ 現役引退した将棋界の名伯楽 森信雄さん(棋士)

土曜訪問

2017年6月17日

 将棋界の名伯楽と呼ばれるプロ棋士が五月、現役を引退した。戦後最多タイとなる十一人の棋士を門下に抱える森信雄(もりのぶお)七段(65)。昨年公開された映画「聖(さとし)の青春」で、その人生が描かれた村山聖九段=一九九八年死去、享年二十九=の師匠としても知られるが、他にも多くの弟子が近年、目覚ましい活躍を遂げている。兵庫県宝塚市の自宅を訪ね、人育ての秘訣(ひけつ)を聞いた。

 通された客間は子ども向けの将棋教室を兼ねる。といっても八畳より少し広いくらいの普通の部屋だ。森七段は「ここに小学生三十人ぐらい入ります」と事もなげに言う。「生徒はいま百人くらい。映画の影響と藤井聡太四段の活躍もあって急増中です。教室を始めた二十二年前からは考えられないくらいの盛況です」

 将棋教室の先生としての柔和な表情とは別に、厳しい勝負の世界に数々の弟子を送り込んできた師匠としての顔も持つ。育て上げた棋士は十一人。故米長邦雄・永世棋聖らを送り出した東の名門、故佐瀬勇次・名誉九段門下と同数に及ぶ。

 「最初の弟子が村山君だったことが大きかった。彼の将棋への執念はすごいものがあり、どうやったらこの子をずっと戦わせてあげられるか、ずっと考えていた。自分が棋士であることも忘れました」。重病を抱えながら将棋に打ち込む村山少年を自宅アパートに住まわせ、身の回りの世話もするなど二人三脚の師弟関係を築いた。以降、棋士を志す子どもたちが次々と入門するようになった。

 門下生は今年、千田(ちだ)翔太六段(23)が棋王戦五番勝負に出場し、澤田真吾六段(25)が王位戦の挑戦者決定戦に進出するなど、活躍が目立つ。また、個性の際立つ棋士が多いことでも知られる。片上大輔六段(35)は東京大の学生から史上初めてプロ入りし、竜王の獲得経験もある糸谷(いとだに)哲郎八段(28)は大阪大大学院で哲学を学び、今春に修士課程を修了している。

 「一門にはああしろ、こうしろという規則や方針がないんです。僕は弟子一人一人と向き合っているから、みんなに言うことが違う。各人が自分を大事にするようになり、個性が育ったのかもしれない」

 現在も十二人の弟子が養成機関の「奨励会」に所属し、プロを目指している。「全部人づてに頼まれたり、引き受け手のない子だったり。僕自身も実力がなく、奨励会に拾われた人間。だから出来が悪くても、一生懸命やる子なら引き受けたくなる」

 将棋界では、将来のない弟子に引導を渡すのも師匠の役割といわれる。だが、一度も弟子に「やめなさい」と言ったことはない。「むしろ逆で、負けてもいいから首になるまでやりなさいと言ってます。不完全燃焼のまま次に行っても未練が残るし、次も中途半端なことを繰り返す気がする。だったら納得いくまでやった方が、人生にはプラスになると僕は思ってます」

 手の空いている時間は常に弟子のことを考えているという。「数が多いから飽きないですよ。当人より僕の方が分かっているところもある。(日本将棋)連盟の職員とか守衛さん、棋士なんかに『最近、あの子どう』と聞いて情報を集めてます。弟子も、僕が探偵みたいなことまでしてるとは知らないはず」と、おかしそうに笑う。

 五月十六日の対局に敗れ、約四十年の現役生活を終えた。通算勝率は四割六厘と決して高くないが、「自分が勝てない分、代わりに弟子に勝ってもらっている。幸せな棋士人生でした」と振り返る。

 真剣勝負の場を去る寂しさを聞かれ、「全然ないです、むしろ気が楽になった」と笑い飛ばす。「僕の棋士としてのテーマは、子どもを強くすること。本当の本当を言うと、礼儀作法とか技術とかはどうでもいいんです。僕がこんなに将棋を好きやから、その面白さを伝えたい。その思いだけでやっている」

 生徒との指導対局も楽しくて仕方ないという。「わざと負けたら子どもは分かるんです。うまくハンディを設定し、一生懸命やって一生懸命負ける。そこが腕の見せどころ。そんなことばかり考えていたら、仕事がどんどん増えてしまって」。現役時代以上に多忙な日々が、当分続きそうだ。 (樋口薫)

 

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