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演出家・村井志摩子さんを悼む 「非被爆者」の悲しみ、創作の原動力に

ニュース

2018年5月15日

在りし日の村井志摩子さん=東京都千代田区で

 「あの苦しみと同化したくても同化できないですもんね。広島におらんかったんじゃけん、裏切りもんの広島女よね、あたしは」

 今月九日、演出家の村井志摩子さんが東京の自宅で亡くなった。八十九歳。ひと月ほど前から徐々に食欲が衰え、亡くなる前日は死を覚悟したように親しくしていた介護ヘルパーの女性の手を握った。静かに眠るような最期だったが、その生涯は、広島に生まれながら七十三年前の夏、東京にいて原爆被害に遭わなかったという「非被爆者」の痛みに貫かれていた。

 東京女子大に入るため、一九四五年三月十日に広島から上京。東京駅に着いたとき、東京は前夜の大空襲で焼け野原になっていた。五カ月後の八月六日には故郷の広島に原爆が落とされる。大勢の友が亡くなったのに、被爆もせずに生き残ったことが負い目となり、自らの運命として背負った。

 戦後は「軍国少女」として生きた戦前と決別するように演劇にのめり込んだ。「自分の言葉を取り戻したかった」という。演出家の土方与志に学び、東西冷戦下のチェコのカレル大学で演劇を学ぶ。原爆投下から三十三年を過ぎてようやく、犠牲者への鎮魂を込めて書き下ろした「広島の女」三部作は代表作に。作品は英語、仏語、ロシア語、チェコ語などに翻訳され、元宝塚女優の大原ますみさんらと海外でも上演を重ねた。

 戦後六十五年の二〇一〇年夏、本紙の終戦の日の特集で作家の稲泉蓮さんと「戦争体験を受け継ぐこと」をテーマに語り合った日のことは忘れられない。

 四二(昭和十七)年秋、二十四歳の兄、真澄さんが南洋ニューギニアのウエワクに出征してまもなく、戦死したときの悲しみを村井さんは涙声で語った。

 「出征の前に兄は日記も私信もすべてを焼却した。死を覚悟して何も残さない生き方を選び、お国のためではなく母や私のために戦場に行くんだと言って家を出た。戦争に行くことの恐ろしさを、私も八十代になっておもんぱかれるようになりました」

 「非被爆者」としての負い目。兄を戦死させた軍国少女としての悲しみ。生涯背負った戦争の影が創作の原動力となり、「核の否定」を作品に込めた。毎年八月は、思いを同じくする演劇者とともに原爆の朗読劇も続けた。

 四年前に映画プロデューサーの夫、葛井欣士郎さんをなくした後は独居を続けた。福島原発事故による放射能被害、安全保障法制や「共謀罪」、沖縄で強行されている辺野古新基地建設などのニュースに胸を痛めた。「国家権力がまた私たちを押さえ付けようとしている。戦前に後戻りしているような空気を、私は許したくないの」。彼女の「遺言」として受けとめていきたい。(編集委員・佐藤直子)

 

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